相手を100%理解する。。。?

まさに今自分がNLPを学んでいてとても関連深い書籍を読んだ。
書籍というか、小説だ。

伊坂幸太郎「SOSの猿」

なぜカウンセラーでもない人が、こんな生々しい描写が出来るのか不思議でならなかった。この小説に書かれている事は、まさに現実に近しい物語がノンフィクションの如く書かれている。

ここまでNLPに近い小説を私は読んだ事が無い。勉強になる小説と説明をした方が正しいかもしれない。巻末を見ると、引きこもり・心理学・ユング・自己正当化などなどの書物が参考図書として挙げられている。文字通り、そこらの心理学参考図書より分かりやすく理解できるのではないだろうか。

一冊の小説を書く為に、ここまで細かく描写する為に、自らの中に蓄えた情報なのだろう。そしてそれを自らの中で、料理し自ら作り出す小説として創造が始まる。もはや常人の技とは思えない。

はっきりいって、ここまでの内容をかけるひとであれば、簡単なカウンセリングなど出来てしまうのでは無いかと思うくらいだ。心理学やカウンセリングの如何を知らない人より、かなり卓越した知識を持ち合わせている事になると思う。

なかでもこんな表現があったのかと思うのが、ほぼ主人公と思われる「二郎」が相手を感じる時だ。小説の中で誰かが言った言葉で、相手の心情を100%理解する事は不可能である、と。言葉にした瞬間に、それは自分の感じていることの一部を文字にしたにすぎない。こんなような事を言っていた。

「二郎」は相手の後ろに景色を見る。綺麗な海とか、蝶が舞っているとか、相手の気持ちを景色で感じ取る。言葉よりは景色の方が多くを語っているというのだ。そしてまた、この小説で表現した事による「二郎」が見ている景色もまた、文字となって、小説となって我々の手元に届けられることにより、「二郎」が見ていた景色もまた、100%では無くなってしまう。

小説を書くという目的のもと、たくさんの書こうと思うテーマについて調べを進める。きっと伊坂幸太郎の読んだ参考図書は、巻末に載っている書籍の倍以上はあったのではないだろうか。そんな気持ちにさえなる。たまたま小説を書く上で、スパイスとして名前を残すアイディアを得られた書籍がたまたま載っていた。そうじゃないだろうか。

それから参考になる描写として、引きこもりの男の子とその母親が描かれている部分がある。母親は言う「親子だから何でも分かっている。そんなのわざわざ聞かなくたって」と。

それは母親の傲慢にすぎず、結局のところ息子の事を何一つ理解していないという裏返しに等しいという一節である。100%相手を理解する事は出来ない。それは、血のつながっている家族にもまったく同様の事が言える。家族だからって、相手の心の中が手に取るように分かるというようなことは決して無いのである。

もちろん他の人に比べると、例えば友達とか、それよりは赤ん坊のころから一緒にいる我が子の方が詳しいに決まっている。しかしそれは、我が子を理解しているとは同義ではない。だからこそ、修飾を家族で共にし、ダイアログを重ね、相手の思い描いている景色を自分の中にも同じように描こうとする。それが相手の事を理解するということではないだろうか。

子供がつまらなそうだから、おもちゃを買ってきてあげた。
泣いていたから、大好物のカレーを夕食にしてあげよう。
眠れないというから、絵本を読んであげた。

もちろんそれもちゃんとした愛情だ。愛情が無いと子供は3歳になっても、ハイハイすら出来なくなってしまう。それはちょっと今のトピックとはずれるから、話を戻す。

相手の事を100%理解する事が不可能であれば、相手の言葉にもっと耳を傾けてあげたらどうだろうか。自分が相手に何かをしてあげるではなくて、相手が自分に何をして欲しいかにフォーカスを当ててみてはどうだろうか。

子供がつまらなそうにしているのは、母親に話を聞いてほしいのかも知れない。
泣いているのは、お父さんともっと遊びたいと伝えているのかも知れない。
眠れないのは、お母さんに抱きしめてほしい、ただそれだけかも知れない。

いずれにせよ、心の内はその人しか知り得ない。他人がどう思っても、その人の想いは変える事ができない。それは普遍の事実なのだから。

だから、もう少し如何なる時でも相手に耳を傾けてみよう。そして、自分は何ができるか。相手は自分に何を望んでいるか。

もの凄い深い考察を与えてくれたこの小説との出会いに感謝。



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